見てはいけない

生田斗真とジャニーズWEST

サラリーマンの父さんの風景 重岡大毅の眼差しに見る「私」の原風景

こんにちは。

前回あんなクソ長い記事を書いて、もう二度とブログは書かないかと思ったのですが、書いてしまうものですね(結局)。

 

 

今回書きたいと思ったのは、ジャニーズWEST7枚のアルバム「rainboW」初回盤Bに収録されているグループ初のソロ曲から、

重岡大毅くん作詞作曲の「サラリーマンの父さん」。

 

この曲は、重岡くんが定年退職になる自身のお父さんに向けた感謝の気持ちを表現した曲です。

そのテーマの通り、この曲には重岡くんのごくごくパーソナルな体験が描かれていると思われるフレーズがたくさん散りばめられています。

というか、ザ・重岡大毅

知らんけど。重岡くんのプライベート、知らんけど。なんなら重岡くんのプライベート、メンバーも知らんけど。知らんけど(わかったから)。

 

でもなぜか揺さぶられる。心の奥に入られる。なぜか涙が出る。

 

この不思議な体験の意味を、この曲を紐解くことによって少しでも私自身が理解したかった。

それだけの動機です。

 

重岡くんはきっと、こんな風に深読みされることを求めていないんじゃないかなと思いながら。

いやむしろ嫌だろうな、きっと。。

ごめんなさい重岡くん。

 

 

だけど勝手に旅に出ます。…へへへ(笑ってごまかせば何とかなると思ってるヤツの笑い)。

前回同様、全部推測なので全部断定で書きます。

真新しい解釈は何もありませんが、よろしければ時間つぶしに…

 

********************

 

 

 

1番

笑顔とため息が
混じり出した近頃の誕生日
へこんだ缶コーヒーも
空のまんま しゃんとしなくちゃ

 

時間軸は重岡くんの誕生日。

制作の時期的にはやっぱり28歳の誕生日をイメージするかな。

ため息が混じってるのは、30歳が目の前に見えてきて思いめぐらせる事柄が増えたから。

缶コーヒーは行き詰ったクリエーターのアイコンみたいなもの。

曲作りでもしていたのかな。

へこんでるのは、力いっぱい握ったっていうより、アイディアが浮かばない手持ち無沙汰でいじっていたのかな、その方が重岡くんっぽいなと思ったり。

今時「缶」のコーヒーってちょっとノスタルジックじゃないですか?

重岡くんの中の昔ながらの不器用な「男」を構成するアイテムの1つのように思うし、後に出てくるアイテムのフックになってるようにも思います。

 


責任の肌触りを
繰り返す日々の意味を
何より誰かの為に生きる
難しさを

 

まさにこの曲を作るにも、締め切りを守って、業界のルールを守って、売れることも考えなければいけない。それが重岡くんの背負う責任。

毎日毎日、笑顔を振り撒く仕事。楽しいけど、これでいいのか、うまくやれてるのか、でも続けないと、これが生活だから。

自分で自分の責任を背負うことの重みを感じているんだろうな。

守られる立場でなく、1人の人間(男)として生きる難しさと向き合ってより、自分を支えてきた父親の大きさを思っているんじゃないだろうか。

その、そっと隣にあって肌に触れる重みを「肌触り」と表すことで、耳と目(重岡くんの曲って視覚効果がすごいですよね)と温度の三方向から重岡くんが入ってくる。

 


赤いちゃんちゃんこ着せられ照れて笑う
あなたの背中思い出す
世界一だなんてことない 金持ちって程でも無いけど
スーパーマンも勝てない サラリーマンの父さん
赤ん坊の僕を抱きしめた
いつかの背中思ってる
あなたの覚悟がこの僕だから
泣かない 負けない サラリーマンの父さん

 

自分の誕生日に、お父さんの還暦の誕生日を回想してるんだね。

世界一でも、金持ちでもない、スーパーマンにも、もしかしたら「勝って」はいないのかもしれない。でも負けに持ち込まない父さんの強さを思う。

そしてさらに深く回想に潜っていく。

赤ん坊の僕を抱きしめた「いつか」はきっと、重岡くんの生まれた日。

今、自分で自分を支えるのも精いっぱいな自分と同じくらいの年齢のお父さんが、初めて重岡くんを抱きしめた日。その日お父さんがした覚悟の結晶が重岡くん。

幸せにならないわけにはいかないから、

「(きっとたくさん泣いてるけど)泣かない(ように頑張るよ)」

「(きっとたくさん負ける日もあるけど)負けない(ように頑張るよ)」

と誓っているのかな。

「あなたが僕を守る覚悟をした」じゃなくて「あなたの覚悟がこの僕だから」ってさ……この言葉の並べ方よ………

こう書くことで、お父さんが一方的に小さな赤ん坊の重岡くんを守る姿ではなくて、お父さんの影と今ここまで大人になった重岡くんの影が重なる感じがするんですよね。

今地に足をつけて生きている重岡大毅の歌だから、それが素敵。

 これは…天然なのかな?わざとなのかな?やめてほしいな?泣くから

 

 

2番

あなたと僕が
重なり出したこの頃の日曜日
鳴らない目覚ましと
置いたまんま枕元のメガネ

 

時間軸は普通の日曜日。

誕生日という特別な1日から、より日常に入り込む風景。

からしゃっきり起きて何か有意義なことをすることもできたのに、目覚ましが鳴らなくて寝坊してしまった残念な日曜日。

…枕元にメガネが置いたままってどういう状況???

私自身はメガネがないと生きていけないので(重岡くんも結構視力悪いですよね)、「まだメガネが枕元に置いてある=まだ寝てるか起きてるけどごろごろして動いていない」っていう解釈になるんですけど。

 

…こういうところなんですよね。こう、重岡くんの歌詞は、説明に落とし込もうとすると難しいんですよ。

でもね、言葉じゃないところでわかるんです。説明なんかしなくてもわかるんです。画が浮かぶから。

そのパンチ力が1つ1つの言葉(単語)にあるんですよね。

あと、つなぎ言葉を省略することで、想像力の居場所を作ってるのも大きい。

 

で、話を戻すと、この情けない状況を、わざわざ「あなたと僕が重なりだした」日曜日として描いているところ。

1番では、スーパーマンにも負けないかっこいいお父さんを描いて、ふがいない自分と比較する感じだったと思うんです。

でも2番では、詳しくは後に書きますが、そんなお父さんにもふがいない、カッコ悪い部分があって、そこが自分と重なっていることを描いているんじゃないかな。

重岡くんとお父さんがぐっと近くなってる。 

 


あの日ブチ切れられた僕を
下手くそ風の吹き回しで
赤と青のグローブ キャッチボール
楽しかったなぁ

 

現在(普通の日曜日)からの過去回想。 

誰にブチ切れられたんだろう?お母さんかな。だとすれば、ここにも「両親」が感じられる重岡家の風景。

「赤と青のグローブ キャッチボール」ここすごく解釈に迷いました。

キャッチボールにつながってるから、普通に野球のグローブなのか、「赤と青の(ボクシング)グローブ」と「キャッチボール」は別とも取れなくないよなとか(多分前者)。

なぜわざわざ「赤と青」にしたのか。

いずれにしても、ボクシングとか格闘技を彷彿とさせられたんですよね。

格闘技といえば重岡くんじゃないですか。

お父さんも格闘技やられてたんですよね?

あのときああやってお父さんに慰めてもらった思い出が、今の重岡くんの中にちゃんと生きているよということだったり、 

「下手くそ」だけど一生懸命慰めようとしてくれる、そういう不器用なあたたかさも、自分の中のお父さんと重なってる部分だよということだったり、が表れてるのかな。

しなくてもいい深読みをすると、グローブを楽器に持ち替えて(いやグローブ捨ててないけど)勝負してる世界で、いつか何かでいいからお父さんに勝ちたい気持ちも入り混じったりしてるのかな、とか。

 

 

タイガースが負けてボヤいてたリビング
街頭照らす パジャマタバコの影
ボロボロになったガラケー
何だって知ってる
母さん怒らせる天才だよな 父さん

 

ここからまた深く、日常が沁みついた重岡家のリビングに回想は潜っていく。

より鮮明に、重岡大毅の原風景が蘇る。

カッコいいだけじゃないお父さんの姿。

「街頭照らす パジャマタバコの影」、これが私、ずーーっとわからなかったんですけど、これってパジャマのままタバコをふかしに家の外に出てきたお父さんっていうことなんですかね??え、みんなわかってた??天才ですか????

タバコは外で吸いなさいと普段からお母さんにしつけられてたのか、

お母さんを怒らせてほとぼりが冷めるのを待ってるのか、

ちょっぴり1人になりたくて外に出てきたのか…もしかしたら家の中から幼い重岡くんがその背中をひやひやしながら見てたりして。

ともかく、しょうもないことでボヤいて、持ち物はボロボロ(無頓着っていうことだよね)だし、そんな、外では見せない重岡家の「中」にしかない、おとんの姿。

ここで冒頭のへこんだ缶コーヒーが思い出される。

ああ、俺のふがいないところ、おとんの情けないところ、ああ、似てんなあ。

そして、そういう部分は、重岡くんが自分の中に存在させることのできるお父さんの部分なのかなあと思ったり。

ここは勝手な決めつけとこじつけですけど、行き詰ったクリエーターの空の缶コーヒーの中って、タバコの吸い殻入ってそうじゃないですか?

 みたいな繋がりを感じてみたり。

 

それから、「何だって知ってる」は、最初、お父さんが物知りだと言いたいのかと思ってたんですけど、

最近は、「知ってる」のは重岡くんっていう線もあるかなと思ってみたりしてます。

お母さんを幾度となく怒らせてきた姿も、カッコ悪いところも、もちろん、幸せをその背中に背負ってきた姿も。僕は知ってるんだよって。

知った上で、ちょっと茶化して「母さん怒らせる天才だよな」って言ってみる。 

 

 

コーダから大サビ

鼻で笑う もう歳だと
助手席 ぬるい風のエアコン
生まれて死ぬまで 僕はあなたの息子だからな

 

ここで初めて、現在の時間軸で重岡くんとお父さんが交わります。

ここで描かれるのは、2番までとも少し違うお父さん。

2番までは、ある過去の時点を回想したときのお父さんの二つの面を見てきたのに対して、ここで初めて年齢を重ねたお父さんの姿が描かれる。

冒頭でため息をついていた重岡くんと、同じ時の流れに乗ったお父さんの姿。

キンキンの冷風はもう体にやさしくない年になったお父さん。

もしかしたら、前よりも少し背中が小さく見えることもあるかもしれないお父さん。

 

「生まれて死ぬまで 僕はあなたの息子だからな」

 

そうには違いない。

でも、お父さんに守られる息子から、お父さんを守っていく息子へ。

自分自身も、お父さんも、その変化の道中にあることが身に染みてしまったんじゃないかな。

ここがダメ、一番ダメ、もうダメ語れない(泣)。

父と息子って、追いつきたい、追い越したい、でもいつまでも大きな背中を見せていてほしい、そういうものなんじゃないかなあと想像する(語ってる)。

 

 
赤いちゃんちゃんこ着せられ照れて笑う
あなたの背中追いかける
何年何十年 会社に向かう
幸せ背負った サラリーマンの父さん
親孝行って何ができるだろう
俺もゴルフ始めようかな
照れ笑いも似てきた 誇らしく思うよ
あなたの人生 サラリーマンの父さん
憧れの父さん 僕だけの父さん

 

時間軸は過去、現在、そして未来への総ざらい。

まだまだ追いかける存在であるお父さんと、自分がお父さんに返していくことになる未来、両方を描いてる。

「幸せ背負った」は、「家族の」幸せを背負ったお父さんも描いているし、

家族を背負うことが、「お父さんの」幸せだと感じていてくれたんだろうと、重岡くんにはそう見えたんだということが言いたいのかもと思ったり。

 

「親孝行」は、まさに子から親へするもの。

俺もゴルフはじめ「よっかな」ってつぶやいて語るように歌う重岡くんが好きなんだな………ゴルフ、はじめよっか(白目)。 

 

ていうか重岡くんの照れ笑い、重岡家遺伝子だとしたらマジで…マジで………(出ないなら書かないで)

 

最後のフレーズ、「僕だけの父さん」っていいですよね。

お父さんを独り占めしたいような子どもみたいな響きもあるし、お父さんを肯定することで、大人になった自分自身のことも強く肯定できるような強さも感じる。

そして、それだけお父さんの存在を強く求めること自体が、重岡くんらしい、お父さんへの最大の賛辞なんだろうと思いました。

 

…ふう、長いな(書いたの誰)。

 

まとめと考察

まとめると、この曲には、

 

重岡くんが、ただ自分だけでもがいてきたように感じてきた「子ども」の自分から成長して「大人」になり、自然と重岡大毅やその家族(特に、同性親である父親)の歴史の中に自分を位置づけられるようになってきたこと(繋がりを感じられると安心しますよね)

(いつも支えてくれてありがとう、とはまた違う意味で。世代性みたいなものかな。)

 

その中で位置づけた自分の中に、家族を背負う強さを持つお父さんのカッコいい面はまだ到底見いだせないけれど、情けなくもあたたかくて優しいところは見いだせるようになってきたこと

 

そういういろんなタイミングがお父さんの還暦や定年と重なり、お父さんに対してより深い感謝の気持ちを持つことができたこと、持っていること

 

が表れているように、私は思いました。

サラリーマンの父さんは、お父さんの歌でもあり、じわじわと責任を持った大人に変わっていく重岡くん自身の歌でもあると思います。

 

 

そして、このごくごくパーソナルの重岡大毅の歌が、こんなにも私の心を打つのか。

わかりませんだってずっと泣いてるから(は?)。

 

でもやっぱり、言葉の使い方、選び方なんですよね。

使い方に関しては、この文章書いてて余計思ったことなんですけど、解釈を書き起こそうにも省略されている部分があまりにも大きい。

そして主客が不明であること(どうにも解釈できること)が多い。

 

 

そこに来て言葉の選び方。

「へこんだ缶コーヒー」「置いたまんま枕元のメガネ」「ボロボロになったガラケー」。あまりにもパーソナル。そして、きっとこれは、重岡くんの目を通してみたそのまんま。

そう、そのまんまなんですよね。

 

なんかこう、曲を映画に例えるとしたら、「かなさんどー」は恋空、"Pinocchio"はデジタルリマスター版モダンタイムスだなあと思うんですけど(ばど巻き込み事故案件)、

サラリーマンの父さんは映写機で映した家族写真なんですよ。

デジタル動画というよりフィルム映画。フィルム映画というより静止画のつなぎ合わせ。

しかも撮っているカメラも、撮り直しのきかないフィルムのカメラ。

簡単には切り取ることのできない時間の流れの中で、重岡くんの目に、頭にだけ残った奇跡の瞬間の積み重ねがこの曲の風景なんだと思います。

でもだから意味がある。だから深く潜れる。

 

重岡くんにとってのタイガースの試合が流れていたリビングは、誰かにとってはお父さんが車をいじるガレージだったかもしれないし、

重岡くんにとってのボロボロになったガラケーは、誰かにとっては破れかけたお父さんのパンツだったかもしれない。

 

そんな風に、1人1人にあるそれぞれの原風景は違うけれど、重岡くんは、自分の心、奥深くにある情景を鮮明に、具体的に描くこと(そして必要以上に多くを語らないこと)で、そういう原風景にたどり着くためのトンネルを、聴いている方にまで通してくれてるんじゃないかな。

 

こう、重岡くんの曲ってね、やっぱ心の奥深くに連れてってくれるんだよね。

そして、とても広い(そして深い)意味で、人間という存在として奥深くで繋がっている感覚をもたらしてくれる。

それってやっぱり、重岡くんが深く自分の心と向き合って曲を書いてくれてるからだって私は思うんです。

言葉の通り、身を削って書いてるんだろうな。

それでも書かずにいられないのかもしれない。

無理しないでね、そうなんだけど、運命というか、人間の業というか、そうやって生きていくしかない、みたいなことが、ある種の職業人にはあるような気がするんですよね。

重岡くんもそういう種類の人なのかなあと思ったり。

 

そんな重岡大毅の音楽が私は大好きです。

 

うん、よくわからないこと書いてすみませんでした。

広がっちゃいましたけど、とにかくサラリーマンの父さんが、大好きです。

こんな文章書いておいて何だけど、重岡くん、幸せであれ。

重岡くんの父さんと、母さんのためにも。

 

読んでいただいてありがとうございました。

長いのに…やっぱりここまでたどり着いてくださった方には100万円ですね……